萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう) 詩人 1886.11.1 - 1942.5.11 群馬県前橋に生まれる。  大正六年(1917)の詩集『月に
吠える』以降、西欧詩体験と日本への回帰という詩的不条理を憂鬱かつ不屈に止揚して日本近代詩の絶頂・深淵を成したと言われる。
掲載詩篇は、興味深い序文とともに朔太郎の優美にして虚無感にいろどられた憂鬱期の代表詩集『青猫』の二章より選んだ。 
大正十二年(1923)一月新潮社より刊行されている。


青猫 序

私の情緒は、激情(パッション)といふ範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聴く横笛の
ひびきである。  ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに
反対する。  すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。  もしくは
装飾音である。  私は感覚に酔ひ得る人間でない。  私の真に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒─
─春の夜に聴く横笛の音──である。それは感覚でない、激情でない、興奮でない、ただ静かに霊魂の影をながれる雲の郷愁である。
遠い遠い実在への涙ぐましいあこがれである。  およそいつの時、いつの頃よりしてそれが来(きた)れるかを知らない。
まだ幼(いと)けなき少年の頃よりして、この故(ゆゑ)しらぬ霊魂の郷愁になやまされた。  夜床(よどこ)はしろじろとした涙にぬ
れ、明くれば鶏(にはとり)の声に感傷のはらわたをかきむしられた。  日頃はあてもなく異性を恋して春の野末を馳せめぐり、ひと
り樹木の幹に抱きついて「恋を恋する人」の愁をうたつた。  げにこの一つの情緒は、私の遠い気質に属してゐる。そは少年の昔よ
りして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにと
もしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。  かくて私は詩をつくる。燈火の周囲にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふ
しぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる実在の本質に触れようとして、むなしくかすてらの脆い翼(つばさ)をばたばたさせる。
私はあはれな空想児、かなしい蛾虫の運命である。  されば私の詩を読む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえ
れぢいを聴くであらう。  その笛の音こそは「艶めかしき形而上学」である。  その笛の音こそはプラトオのエロス──霊魂の実
在にあこがれる羽ばたき──である。  そしてげにそれのみが私の所謂「音楽」である。「詩は何よりもまづ音楽でなければならな
い」といふ、その象徴詩派の信条たる音楽である。

 感覚的鬱憂性! それもまた私の遠い気質に属してゐる。  それは春光の下に群生する桜のやうに、或ひはまた菊の酢えたる匂ひの
やうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。  かくて私の生活は官能的にも頽廃の薄暮をかなしむであらう。  げに憂鬱なる、
憂鬱なるそれはまた私の叙情詩の主題(てま)である。  とはいへ私の最近の生活は、さうした感覚的のものであるよりはむしろより
多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。  (たとへば集中「意志と無明」の篇中に収められた詩篇の如きこの傾向に属してゐる。これらの
詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緒に映じた残像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覚的鬱憂性に属し、他
の或るものは思索的鬱憂性に属してゐる。  しかしその何れにせよ、私の真に伝へんとするリズムはそれでない。  それらの「感覚

的なもの」や「観念的なもの」でない。  それらのものは私の詩の衣装にすぎない。  私の詩の本質──よつて以てそれが詩作の動
機となるところの、あの香気の高い心悸の鼓動──は、ひとへにただあのいみじき横笛の音の魅惑にある。  あの実在の世界への、故
しらぬ思慕の哀傷にある。  かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命(いのち)をかなでようとするのである。  され
ば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的糜乱がない。  或ひはまた重鬱にして息苦しき観念詩派の圧迫がない。
むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。  これは情想のすなほにして純情のほまれ高きを尊ぶ、まさしく浪漫主義の正系を踏む
情緒詩派の流れである。
「詩の目的は真理や道徳を歌ふのでない。  詩はただ詩のための表現である。」と言つたボオドレエルの言葉ほど、藝術の本質を徹底
的に観破したものはない。  我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の概念を駆逐するであらう。  「酔」と「香気」と、ただ
それだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に関して言へば、どんな詭弁もそれの附加を許さない。

かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神秘でもなく信仰でもない。  また況(いは)んや「生命がけの仕事」で
あつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。

 生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。

詩はいつも時流の先導に立つて、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五
年、十年を経て決せらるべきである。  五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、
発表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遅きを普通とする。  かの流行の思潮を追つて、一時の浅薄なる好尚に適
合する如きは、我等詩人の卑しみて能(あた)はないことである。

詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空気に高く超越して、もつとも高潔清廉の気風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。

詩を作ること久しくして、益々詩に自信をもち得ない、私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。
 
   利根川に近き田舎の小都市にて

                   著者

青猫

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ桜の並木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

月夜

重たいおほきな羽をばたばたして
ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ
あかるい花瓦斯のやうな月夜に
ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騒擾だ。

強い腕に抱かる

風にふかれる葦のやうに
私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる
女よ
おまへの美しい精悍の右腕で
私のからだをがつしりと抱いてくれ
このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ
ただ抱きしめてくれ私のからだを
ひつたりと肩によりそひながら
私の弱弱しい心臓の上に
おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ
ああ 心臓のここのところに手をあてて
女よ
さうしておまへは私に話しておくれ
涙にぬれたやさしい言葉で
「よい子よ
恐れるな なにものをも恐れなさるな
あなたは健康で幸福だ
なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません
ただ遠方をみつめなさい
めばたきをしなさるな
めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ
いつもしつかりと私のそばによりそつて
私のこの健康な心臓を
このうつくしい手を
この胸を この腕を
さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」

蝿の唱歌

春はどこまできたか
春はそこまできて桜の匂ひをかぐはせた
子供たちのさけびは野に山に
はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。
さうして私の心はなみだをおぼえる
いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ
この心はさびしい
この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした
しだいにおほきくなる孤独の日かげ
おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。
いま室内にひとりで坐つて
暮れゆくたましひの日かげをみつめる
そのためいきはさびしくして
とどまる蝿のやうに力がない
しづかに暮れてゆく春の夕日の中を
私のいのちは力なくさまよひあるき
私のいのちは窓の硝子にとどまりて
たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。

春の感情

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでゐると気がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ
春がくるときのよろこびは
あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ
ふるへる めづらしい野路のくさばな
おもたく雨にぬれた空気の中にひろがるひとつの音色
なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて
春はしつとりとふくらんでくるやうだ。
春としなれば山奥のふかい森の中でも
くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに
私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す
たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの
かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて
ひねもすさびしげに匂つてゐる。
春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ
また藪かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。

夢に見る空家の庭の秘密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類
びわの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物
およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命(いのち)
それら青いもののさかんな生活
その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も昼もさよさよと悲しくひくくながれる水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした気味わるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃な世界のうへに
夜(よる)は青じろい月の光がてらしてゐる
月の光は前栽(せんざい)の植込からしつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろのもののかくされた秘密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊歯(しだ) わらび 松の木の枝
なめくぢ へび とかげの類の無気味な生活
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。

鶏

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏(にはとり)です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
朝のつめたい臥床(ふしど)の中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏(とり)のこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを
恋びとよ
恋びとよ。
しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅(べに)いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを
とをてくう、とをるもう、とをるもう

仏の見たる幻想の世界

花やかな月夜である
しんめんたる常磐木(ときはぎ)の重なりあふところで
ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで
かのなつかしい宗教の道はひらかれ
かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。
げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐
そのひとの瞳孔(ひとみ)にうつる不死の幻想
あかるくてらされ
またさびしく消えさりゆく夢想の幸福とその怪しげなるかげかたち
ああ そのひとについて思ふことは
そのひとの見たる幻想の国をかんずることは
どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ
いま疲れてながく孤独の椅子に眠るとき
わたしの家の窓にも月かげさし
月は花やかに空にのぼつてゐる。

仏よ
わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花弁を
青ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香気を
仏よ
あまりに花やかにして孤独なる。

オプション

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